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シベリア抑留・原爆体験者のお話を聞く

執筆者の写真: 杉本 詠美
杉本 詠美
8月24日
読了時間: 3分

 昨日は平和を考える地域のイベントで、18歳でシベリア抑留を体験されたかた、1歳8か月のときに妊娠中のお母さまと広島駅近くで被爆されたかたのお話を聞きました。


 わたしの両親はともに満州からの引き揚げで、父方の祖父はシベリア抑留を経験しました。まだ小さい三人の息子を抱えた祖母が、広島県の山間の町に落ち着いた後、刑務官となって家族を養ったこと、夜勤も多い母親の留守に三兄弟で家事をしたことなどは話を聞くことがありましたが、祖父は戦争や抑留のことをいっさい語りませんでした。計算してみると、抑留当時、祖父は40代です。昨日うかがった話からすると、40代は年齢が上のほうで、命を落とす人も多く、極寒の地での厳しい収容所生活はことさらつらかっただろうと、あらためて考えました。祖父の背中には袈裟懸けに大きな傷痕があり、それがいつどうしてできたものかも話してはくれませんでしたが、わたしはいつもそれが祖父が戦争に行った証のように感じていました。昨日は祖父から聞けなかった話が聞けたこと、よかったと思います。


 被爆とその後の体験を語ってくださったかたの話の中には、両親が育ち、わたしの生まれた町の名が何度も出てきました。広島市内の地名もなじみのあるものばかりなので、具体的な想像ができ、お話がより真に迫って感じられた気がします。


 わたしが育ったのは同じ県内でも広島とは反対の端なので、原爆に対する気持ちというのは市内のかたがたとはまた違うでしょうが、東京に出てみると、それでもやはり「ヒロシマ」の気持ちで平和教育を受けてきたことをはっきりと感じます。大学の4年間は広島市内に暮らしたので、生活の中でその当時の「現在」と原爆投下の「過去」とをいつもどこかに感じながら過ごしていたように思います。下宿の大家さんご夫妻は被爆者でしたし、比治山の陰で焼けずにすんだ昔ながらの段原の町や爆風被害の跡がくっきりと残る旧陸軍被服支廠に沿った道など通るたびに原爆のことを考えずにはいられませんでした。


 このごろ、原爆投下はウソだとするデマが流されたり、それを信じてしまうひとがいたりすると聞いて、信じられない思いです。世界で起こっているいろいろなことにも胸が痛いですが、わが国の政治家の発言にも不穏なものがたびたび出てきて、遠くない日にこれまで守ってきたはずのものが一気に崩れ去るのではという不安が増すばかりです。80歳、90歳を超えるご高齢になって、いまどうしても伝えておかねばとつらい体験を語ってくださるかたがたの思いに報いるためにも、知らぬふり、気づかぬふりはできない。では、何ができるのか。とにかく、考えつづけていかねばなりません。



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